カスタマーサポートやカスタマーサクセスの現場で、永遠の課題とされているのが「ベテランに聞かないと分からない」状態の発生、つまり“属人化”だ。FAQもマニュアルも存在している。しかし実際の顧客対応では、契約条件、過去の経緯、それまでの担当者間のやり取り、例外処理、業界特有の言い回しなどが絡み合い、FAQ検索程度では的確な答えにたどり着けないケースが多い。
この構造的な課題は、ニッチかつ専門的な業界/業種ほど深刻さが増す。今回のGENIAC-PRIZEでも、「暗黙知の形式知化」は申請テーマとして取り上げる企業が多かった。なかでも東洋船舶がAI開発などを展開するJDSC(Japan Data Science Consortium)と共同開発した船主支援向けAIエージェント、「AI番頭」のユニークさと斬新性は、そのニッチさも手伝って審査員の目を惹いた。同社の取り組みは、生成AIを単なるチャットボットとして導入するのではなく、それまで綿々と培った「組織知」を再設計する試みといえる。
東洋船舶は、三井物産グループの船舶関連サービス企業だ。その業務は、船主と用船者(船主から船舶を借り受けて輸送する者、事業会社)の間に立つ用船仲介、中古船売買仲介、舶用機器販売、技術コンサルティングなど多岐にわたる。
船主とは、船を保有する法人、あるいは家業型の事業者を指す。船舶はエネルギー、原材料、穀物、肥料などを運び、国際物流の基盤を支えている。米国とイランの紛争によって全世界に経済危機をおよぼしたホルムズ海峡の封鎖の影響はまだ継続中で、船舶による運輸がほぼすべてのビジネス、国民の生活に影響することが改めて認識された。船主と用船者をつなぐ、東洋船舶のような仲介企業が果たすべき役割と社会的な価値は極めて重く、大きい。
その役割は、単に情報を取り次ぐことだけではない。契約書に明記されていない要請の扱い、用船者からの要求を船主が受けるべきか、断るべきか、過去に似た事例はあるのかなど、あらゆる判断を支える伴走者として機能している。
言い換えれば、極めて高度なBtoBサポートといえる。1つの問い合わせ対応には、契約、商流、技術、法務など、さまざまな専門知識が必要となる。図にある通り、「属人化」が招くリスクは極めて高い。
同社がAI活用を検討し始めたのは、2022年ごろだ。開発・運用を主導した技術本部海工務部の加藤友紀浩部長は、「コロナ禍で人(社員)の移動が制限されても、船舶は稼働していますし、船主への支援は止められません。人手を割くことなく支援の品質を維持する仕組みが必要で、ビジネスデベロップメント部門、システム部門、海運の専門部門の3チームで検討開始しました」と当時を振り返る。
まず検討したのが、船主からの問い合わせに答えるためのFAQシステムだ。しかし、「船の建造から運航、売買、廃船に至るまでの業務を洗い出すと、想定される問い合わせは少なく見ても10万通り。それをすべてFAQとして作り込むのは不可能」(加藤氏)という結論に達した。
次に着目したのが、2023年頃に話題になったChatGPTに代表される生成AI、そして回答を制御する技術であるRAGだ。社内に散在するメール、添付ファイル、契約書、技術資料、過去の対応記録を検索対象とし、質問に対して根拠を持って回答する――ゼロからFAQを作るのではなく、すでに存在する業務データを活用するという発想である。
加藤氏は、当初の想定について「最初は船主さんに自己解決していただくツールを目指しました。ただ、電話1本で解決する用件にわざわざツールを使っていただくのは難しい。ならば問い合わせを受ける私たちが回答に活かすツールにすればいいと考えました」と説明する。
近年の人手不足を受けて、さまざまな業種のカスタマーサポートが自己解決促進を目指した「AIオペレータ」構築を目指しているが、結果的に顧客に手間を強要する作りになっているボットも少なくない。利用を強制するのではなく、まず支援する側の生産性と応対品質を高める――同社の取り組みは、さまざまなCS部門にとって現実的な導入順序といえる。
開発したAI番頭は、「メールや社内文書から情報を検索し、要約し、回答を生成する仕組み」(JDSC Technical Co-Founderの橋本圭輔氏)である。つまり、非構造化データから情報抽出と要約を自動化したわけだが、海事業界のデータは単純ではない。
専門用語が極めて多く、かつ表現が多彩だ。例えば用船契約書は「チャーターパーティー」「CP」「TCP」など複数の呼び方をされる。仮に船名で絞り込めないケースが発生すると、別の船の情報が混ざることもある。さらに契約書は随時改定されるため、古いバージョンを参照すれば誤回答につながる。メールには業務上の重要情報だけでなく、ときにはノイズ――雑談も含まれる。そのため、単に文書をAIに読み込ませるだけでは不十分だった。「船名、契約、文書種別、時系列、類義語、略語をどう扱うか、誰がどの情報にアクセスできるか、検索結果がない場合は答えさせない設計にするのかなど、業務固有の設計を徹底追求し、実用性を高めました」(JDSC ディレクターの筒井一彰氏)。
最大の特徴といえるのが、『メールをナレッジの中心に据えた』点である。ベテランの判断や過去の対応は、正規のデータベースではない、メールのやり取りに残っていた。対応履歴、担当者間の相談、添付資料など、メールサーバーに蓄積された情報が、最も価値あるナレッジだったのである。
具体的な数値成果について、同社CFO統括本部DX戦略推進部の安樂智浩マネージャーは「情報検索時間は70%減、意思決定に至る時間は50%減、業務効率化については54時間/人・月の削減に成功しています」と説明する。
なお、活用されているLLMは米アンソロピックの「Claude」だ。国産基盤モデルもテストしたが、「日本語理解・翻訳タスクでの優位性はあるが、専門領域の構造化タスクにおいては課題が残る」として採用は見送った。しかし、LLMの性能というより「データの読ませ方」にキモがあることは明白である。
AI番頭は、ブラウザベースで利用されている。船主ごと、船ごとに参照できる情報を制御し、東洋船舶の社員も船主も活用できる形を採用した。加藤氏は、「単なる検索システムではなく、文脈を理解して包括的に回答を生成できるツール。専門知識を持たない社員でも、経験豊富な専門家と同等に対応可能」と説明する。その特徴を最大限活かすための環境といえそうだ(操作画面例は画像)。

もちろん、権限などの情報管理には最大限、配慮しながら活用している。これは他のCS部門にとっても重要な教訓といえる。AIを導入しても、担当者が画面を開かなければ使われない。顧客対応の現場では、精度、速度、操作性、権限管理、教育、改善サイクルを一体で設計する必要がある。
同社の取り組みは、生成AI活用の本質を示している。ポイントは、AIに人を置き換えることではない。人に蓄積された経験、例えばメールに埋もれた経緯、フォルダの奥に眠る資料を、組織として使える状態に変えることである。
ベテランの退職、複雑な問い合わせ、顧客ごとの個別事情、ナレッジ更新の遅れなどの課題に対し、従来型のマニュアルやFAQだけで対応するには限界がある。生成AIの導入価値は、問い合わせの自動応答ではなく、担当者が根拠を持って判断し、顧客に一貫した説明を行い、過去対応を再利用できる状態をつくること――AI番頭の事例は、2026年春段階の顧客対応のあり方を示すロールモデルだ。
自社の最も重要なナレッジは、どこに眠っているのか。FAQ、マニュアル、顧客管理のDB、そしてメール――AI活用の第一歩は、ツール選定ではなく、顧客対応を支える知識資産を、どのように見つけ、整え、使い続けるかを決めること。この基本を忠実に具現化した事例といえそうだ。